古流理恩会の歴史

古流の歴史

江戸の中期、明和期に生まれたシンプルで粋ないけばな

古流は江戸中期頃(明和年間)に今井一志軒(そうふ)によって創流されました。その後、江戸時代後期にかけて2代安藤涼宇(あんどうりょうう)、3代関本理遊(せきもとりゆう)、その後を引き継いたのが4代関本理恩(せきもとりおん)でした。
理遊は花形を整備して現在の古流の花型の原型を作り上げ、古流中興の祖として現代でも古流の門人は理遊の「理」の一字を頂いております。そのあとを継いだ理恩は理遊の花形を完成させました。ここに古流の生花は隆盛を極めますしかし時代は幕末。やがて明治の時代を迎えると古典芸能は排他され、沈滞してしまいます。そんな中で古流もばらばらになってしまいます。従来より古流は加賀前田藩に抱えられていましたので参勤交代の折に加賀(金沢)へお供して多くの門人を生みました。これが北陸系古流となり、江戸に残った古流を江戸系古流といいます。明治も30年台頃より古典復興の兆しとともに全国から古流の門人が集まるようになりました。これが現在の古流協会の原型です。しかし江戸から東京に変わり大正の関東大震災、そして昭和の第2次世界大戦と2度の戦火により貴重な資料などを焼失してしまいました。戦後は日本の復興と伴い古流は再び不死鳥のように蘇りました。現在、古流13会派が所属する古流協会は毎年銀座松屋での花展や古流会館での社中展、研究会を開催しています。
現在では伝承された古典生花古典生花はもとより現代の花材や生活空間にも対応する「小品生花」が生けられています。また、現代花においても古流らしい植物本来の美しさを生かした花や植物の本質に近づく自由花も研究されておます。

理恩真筆による花徳の軸

理恩真筆による花徳の軸


 古流理恩会の歴史

古流理恩会は四代家元松盛斎関本理恩先生の遺志を受け継ぎ、東京(東都)にて古流の技術と精神を守って参りました。


五代 松茂斎理登(初世)

明治11年、四世理恩没後、その遺志を引き継ぎ、多くの伝書を記しました。江戸から明治と時代が移り行く花道も文明開化の波を受け、一時衰退してしまいましたが、やがて日本の伝統が見直され、古流も再興しました。晩年、隠居して「松遊斎理翁」を名乗りました。明治32年(1899年)3月没(本名宇田川平蔵)


六代 松茂斎理登(二世理登)

五世理登の長男。五世没後に家元に襲名。明治42年、45歳の若さで他界(本名宇田川利八)


七代 松遊斎理翁(二世理翁)

六世理登の弟。(本名宇田川)六世が若干45歳にて他界したため、その後を受け継ぎました。時は大正時代へと移って花道も再興してきました。六世の娘(後の十代理登)を養女にしました。昭和7年没


八代 松遊斎理翁(三世理翁)
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八代理翁 戦前のお稽古風景

十代理登の婿として、七代亡き後に家元を襲名しました。時代は昭和となり花道人口も増え始めます。古流協会や(財)日本いけばな芸術協会の設立に協力をしました。また、浅草正覚寺境内に理恩先生の記念碑を建立しました。昭和22年会報「翁草」も八代理翁の時代に創刊されました。(本名 宇田川四郎)


九代 松遊斎理翁(四世理翁)

八代理翁の長男。昭和42年八代逝去に伴い家元に襲名しました。戦後の高度成長とともにいけばなの全盛期とともに歩んできました。時代は「前衛いけばな」の全盛期、多くの話題作を残しましたが昭和51年49歳で逝去。「いけばな日本の旅」(本名 宇田川健治)


十代 松茂斎理登(三世理登)
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十代理登 古流協会展にて

 

六代理登の次女。後に七代の養女となりました。八代とともに理恩会の中興を支えてきましたが、九代が逝去したため現家元(当時15歳)が家元になる間を家元として活躍。特に葉物の中の水仙、万年青には定評がありました。平成2年8月、現家元襲名を見届けて逝去。84歳(宇田川鶴子)


  十一代 松茂斎理翁(五世理翁)

九代理翁の長男として昭和34年、東京で生まれました。平成2年に十一代家元を襲名しました。十代仕込みの古典はもとより現代いけばなまで様々なイベントに参加。いけばなのジャンルを超えた活動を展開しています。

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十一代理翁

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