世界にはたくさんのきれいな花を見る事が出来ます。しかし、ただ花を器に入れるだけでは「いけばな」とはならないのです。いけばなは花を「美」として昇華した瞬間「いけばな」が成立するのです。インド、中国で生まれ日本の風土の中で熟成され育成された『いけばな』はやがて芸術にまで高められていきました。
日本はその変化のある地形、気候、により豊な自然、多くの植物に囲まれた国です。そんな地理的な条件から自然を崇拝する原始宗教(アニミズム)が長い間信仰されていました。それは大きな岩や樹木などに「神」が宿る「依代」(よりしろ)というもので、現在でもお正月に玄関などに飾る門松もそのなごりです。樹木の中でも松はその姿態や一年中枯れない(常緑)事から神の依代として特別に扱われてきました。
このような自然観と仏教の伝来とともに供花(仏様に手向ける花)が中国より伝来するとそれらは融合して「たて花」と呼ばれるものになりました。そんな中で花を立てる(当時は花を立てるといっていた)事の得意な人々が現れ、寺や公家に呼ばれて専門に花を生ける専門家ができるようになります。(同朋衆)また、室町時代になると建築形式の変化から仏は大きな伽藍からの掛け軸へと移されます。その仏画の前に「押板」と呼ばれる場が作られます。押し板には図にあるように花瓶、香炉、燭台の3点(三具足)が飾られ、ここに生けられる花の形式が徐々に決められるようになります。これらの飾り付けを行なっていたのは「同朋衆」と呼ばれる僧たちでした。一方で中国の文人(高級官僚)たちの間ではやっていた文人花(挿花)が日本にも伝えられます。
このような自然観と仏教の伝来とともに供花(仏様に手向ける花)が中国よりするとそれらは融合して「たて花」と呼ばれるものになりました。そんな中で花を立てる(当時は花を立てるといっていた)事の得意な人々が現れ、寺や公家に呼ばれて専門に花を生ける専門家ができるうになります。(同朋衆)また、室町時代になると建築形式の変化から仏は大きな伽藍からの掛け軸へと移されます。その仏画の前に「押板」と呼ばれる場が作られます。押し板には図にあるように花
また、茶道も成立して茶室に生けられる茶花が千利休などにより完成されます。これらの影響を受けながらいけばなは「いけばな」として「形」「形式」を持つようになります。やがて江戸時代を迎えると今まで公家や武家の楽しみであったいけばなは富裕な町人の手に移ります。江戸時代には多くの流派が作られ、建築様式も書院造りから数奇屋造りになります。庶民の小さな床の間には「生花(せいか)」が生けられるようになりました。また、多くの人を集めて花展を開催したり、いろいろな趣向が凝らされるようになりました。古流もこの頃、創流された流派のひとつです。